男鹿三山とは? (真山、本山、寒風山です)
  我家に親戚より一冊の本が送られて来ました。
 昔の古い写真集で男鹿や八郎潟が載っているので見てくださいとのこと、
 『東宮行啓記念写真帳』秋田県庁から明治41年に発行されたものです。
 
左が帆掛島
       

入道埼灯台
 以前から私が気にしていた「男鹿三山」の事も載っていました。

   男鹿の三山
 男鹿半島に三高山あり眞山、本山、寒風山是れなり、本山は南磯村に在り、
 山上赤神神社を祠り又本山神社とも稱し景行天皇二年の創立なりと云ふ、
 其の祭神詳ならず、俗説には漢武帝を祭ると稱し蘇武か澤等を附會せり、
 頂上袴超は遙に飛島、佐渡島を望みて眺望廣濶風景絶佳なり、
 眞山は北浦町に在りて頂上は本山、と同じく赤神神社を祠る、寒風山は一名
 妻戀山と稱し他の二山と共に有名なり、本山、眞山は縣下有數の官林にして
 老杉蓊欝面積千七百餘町歩其の最も繁茂せる箇所は一町歩の材積四千尺〆に 
 餘る所あり而して材質の緻密なる他に多く其の比を見ず樹幹亦長大なり、
 寒風山は岩石多く寒風石の名を似て良石材を産す。
        (『東宮行啓記念写真帳』 明治41年9月18発行 秋田県庁)より

  インターネット[男鹿三山]で検索、ビックリしました・・・。
 以前は両論がありましたが、今、ほとんどのページが、真山、本山、毛無山、
 インターネットの世界で男鹿三山とは、100ページ以上見た中で、
 両論を書いているホームページはトップの1ページだけ。
 (2007. 4.10 現在 Yahoo!検索)
 つまり、ほとんどのページが毛無山に決定されている感じです。

  そこで、『男鹿市史』平成7年発行を取り出して確認したところ、
 下巻 1,080ページ 
 「お山(真山・本山)とその周辺」  [男鹿三山と山岳信仰]
 男鹿三山について、
真山、本山、寒風山、と書かれています。
 地元、
男鹿市では寒風山となって、私の憶え違いではないようです。
  (図書館で確認してみて下さい)



  そこで、私の知っている「男鹿三山」

  なぜ、真山、本山、毛無山ではないのか?
 菅江真澄(1754〜1829)の恩荷能春風(おがのはるかぜ)では、
   本山の奥の岳、昔は前山といった処に、石積みして(甲)薬師堂があり、
  その左手の下の方は(乙)加茂の浦であると、此仏舎の前の九曲りの道を下り(丙)
  毛無薹を経て、遙々行くと、本山日積寺永禪院に至るという。
  (『新訳 眞澄翁男鹿遊覧記』 昭和27年9月30日発行 男鹿史志刊行会)より

  九曲りの道を下り、毛無薹(だい)つまり毛無台で、そこを通り本山日積寺永禪院
 に至る、文章から毛無台は本山の一部と考えられます。
 たとえば、寒風山を見れば山は三つくらいに見え、地元では男山、妻恋山などと名前が
 付いているようですが、板場の台など、合わさったものが、寒風山と考えます。

  昔から男鹿の図に真山、本山は記載されていますが、
 『絹篩(きぬぶるい)』 鈴木重孝著 1852年 なども毛無山が無いのは、
 この辺かなと私は思っています。(絹篩には毛無山の記載はありますが、男鹿の図には無い)
 古い男鹿の図など、毛無山が入っているものは見つけれませんでした。

  また、『男鹿市史』  [修験者の道 お山かけ]  下巻 1,085ページ 
 
真山・本山は「お山」と呼ばれて古くから・・・。
 なだらかな毛無山をすぎて・・・。



 
真山、本山、二つの山を「お山」といい、毛無山は本山の一部の場所ではと私は考えました。

  毛無とは、毛(木)が無いという意味ではなく、アイヌ語のケナシからでは?
 ケナシとは「平」、「山林」、「川原の林」という意味のようで、
 
どこが山頂かわからないような平らな感じでは?

  ところで、この「男鹿三山」のページを見た方から ♪男鹿小唄 には、
 「真山、本山と寒風山より、出ていないよ!」と教えていただきました。
 そこで、♪男鹿小唄 が載っているなつかしい本『うたの栞』↓をお借りしてきました。


上画像125×62mmは 『うたの栞』 昭和30年〜40年頃のものと思われます。
太平山(酒造会社)か秋田中央交通株式会社? 発行所、印刷年不明
 
秋田で観光バスに乗ると遠足など無料で配布された
(当時、無料配布のこの本は図書館でも無く、現在は貴重なものでお借りして来ました)

♪男鹿小唄は昭和30年ころ?、発表されたようですが、
(歌詞がいいです、最高です ♪〜君としぶきの大桟橋へ〜、♪〜愛のジャンプも男鹿の冬〜)



♪二番の「真山本山かけなら思いもかけて〜」に注目していただきたいです
♪「おやまかけなら思いもかけて〜」と歌います。
つまり、この当時でも 
「真山、本山」=「お山」 で、
毛無山は「お山」に含まれていないものと考えられます。

いつごろから毛無山の名前が登場するようになったのか?
あまり古くないのでは?

でも、三山を寒風山と書いているものが結構多いのはビックリでした。
男鹿三山という言葉自体が、そんなに古くからでは無いのでは(明治〜大正)と思います。


「お山」とは「御山」か? そして御山とは赤神山では?

元々男鹿では、お山、寒風山(さむかぜやま)の二山なのか、
と私は考えています。


  では、なぜ、最近こんなに男鹿三山がパンフレット等で使われているか?

  以前、ある人から男鹿三山に行った話を聞きました。
 その人に男鹿三山とは・・・、と話したところ、
 「でも、秋田市から男鹿に来る時は綺麗に三つ並んだ山は三山と思いますよね」
 そして、「出戸浜バイパスからの男鹿の景色は寒風山よりも毛無山の方が」とのこと、
 その説明を聞いて初めて気が付きました。

              出戸浜バイパスからの眺め

綺麗な三つの山並みとは、   で、男鹿三山と思っていたよう
現在、毛無山と呼ばれているところは 
 です
真山、本山、毛無山は、
   です
 はほとんど平らな感じです
 は八王寺というお寺があったところ、山の名前は不明


 
八望台                        八望台(床の案内石板)
  上は八望台から見た「お山」です。(秋田方向から反対側、裏側です)
 イメージ的には三つ並んだ山イロハが男鹿三山と見えるのが普通と思います。
 でも、よく見ると右端にチョットだけ案内板の毛無山
の一部が見えています。
 初めて男鹿に来た人も、男鹿の人も、この景色、この案内板を見たら、
 「男鹿三山」に疑問は持たないでしょう。
 
  男鹿市内の学校の校歌にも「三山」の言葉が何校かありますが、
 今と昔で山の名前が変わったら困りますよね、以前、三山の話題が出たとき
 「男鹿山々」だったら問題なかったのに、と私は答えたことがあります。
 

  そして最後、男鹿三山を表した決定的なものを見つけました。

 
あまの原 うつろふ雲にまじはりて
         寒風の山 真山 本山
 

  斉藤茂吉が「八郎潟」と題して連作した短歌中にある一首です。


 
 近年、出戸浜バイパスが出来たことで、車窓からの景色が影響しているのでは、
 また、今の時代は便利で、本など図書館へわざわざ調べに行かなくても、
 パンフレットを作る側もインターネットで簡単に調べることができるわけです。
 そして、次、次、とそんな感じで、お役所まで、新しいパンフレットで間違ったこと・・・、
 そんな感じで広がって来たものでは?と考えました。

 昔は八郎潟があり、船を使って渡る時代、出戸浜バイパスが出来たことによる車の時代で、
 男鹿半島の進入経路が変わった事によってと思われます。

  奥羽線や男鹿線の車窓から見たら今でも、男鹿三山は寒風山で納得してもらえると思います。
 時代と共に文化は変わるかも知れませんが?
 間違っていなくても、少数派の考え方が間違っていることに成るのかもしれません。
 (そんな少数派の意見としてこのページを作りました)
 私を含め、適当な話を気軽に書けるインターネットは怖いです。

 

五城目方向からの男鹿三山
(本山、真山、寒風山)

 
絵のように見えますが、我家のデジカメで撮影、
 ピンボケで、画像編集(上下カットのみ)せず使っています 
  私のおすすめは、五城目方向から望む男鹿三山です。
 三つの山がチョウドいい大きさに見え、三山らしくないですか、
  昔、八郎潟があったころ、八郎潟の漁師は、お山と寒風山(さむかぜ)の重なりを左右に見て
 位置がわかったそうです。
 今は無き八郎潟に帆掛舟を浮かべ、背景に男鹿三山、日本画家館岡栗山の世界です。

  ところで、真山、本山、毛無山を「赤神三山」と言ったら、 そんな話を聞きました。

 
「 赤神三山 」 私はピッタリと思いましたが、みなさんどうですか?

   男鹿三山、いかげなごと言うな、毛無山でいいんだ、おべだぶりするな等、楽しい論争、
                       ご意見、メールお待ちしています。

oganoumiusi@hotmail.com
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